月別アーカイブ: 2013年11月

「この支配からの卒業」を促す遊び

私たちは、いろんなものに支配されている。それは例えば、夜の校舎の窓ガラスを壊してまわる衝動にかれられるような支配もあれば、もっともっと無意識下で存在している支配もある。

分かりやすいのは、デイリーポータルZに掲載された、小野法師丸さんの『布団で睡眠エブリウェア』という記事である。私はこの記事が大好きで、事あるごとに思い出しては支配と自由について考えている。

さて、記事の中で法師丸さんは何をしているかと言うと、単に布団を外に持って行ってあらゆるところで寝ている、というだけである。ただ私には、この「布団を外に持って行って」という部分に、すごく自由を感じるのだ。

それこそ「外で寝る」なんてのは、アウトドア趣味の方にとっては普通だろう。しかし、アウトドアの場合は布団では寝ないと思う。外で寝るには、外で寝るなりの装備があるのだ。これは言い換えると、私たちは、「布団は家の中で使う」という当たり前に、無意識のうちに支配されていると考えることができる。

公序良俗に反す場合は別として、布団を外に敷いてもいいだろう。敷きたければ敷けばいいし、それが自由だと思う。

……と、ここまでが人間目線での支配と自由の話。では、布団の目線で考えたらどうだろう?

布団はこの世に生を受けて、いろんな流通を経て家庭の寝室に配属される。そこからは、たまの晴れた休日にベランダに干してもらう以外は、基本的にはインドア生活である。

私には布団の気持ちは分からないし、布団はそもそも布団である。しかし、そんな不条理を無視して布団に感情移入して考えてみるならば、布団ももっと外に出たいのではないか。犬だって散歩に連れて行けば喜ぶし、布団も同じなのではないか。私たちが「布団を外に持って行く」という行為は、布団にとってみれば、普段のインドア生活と比べて、より強く自由を感じられるのではないだろうか。

「布団を外に持って行く」という行為は、布団に対して課せられた見えない支配から布団を卒業させるという、そういう意味を持っているのではないか。そんなことを考えるのだ。

■ レンタサイクル編

同じようなことをレンタサイクルに対しても考えている。

写真は、私が北海道の美瑛に行ったときに借りたレンタサイクルである(美瑛なので、BAAマークが駄洒落みたいになってるなあ、と思って撮った)。この自転車は毎日忙しく働いているので、フレームが傷だらけになっているのが分かると思う。ただ、このようにボロボロになるまで乗り回されてはいるものの、遠方まで出張っているかというと、そうではない。

レンタサイクルは主に観光地で貸し出されていて、基本的には周辺の観光エリアを効率よく回るための足となる。つまり、レンタサイクルの行動範囲は、その観光エリア周辺に限られているのである。

観光地によっても違うだろうけど、観光客が自転車に乗ってどれだけ動くかを考えると、せいぜい半径5kmがいいところだと思う。レンタサイクルは、その半径5kmの世界で生きているのだ。

しかし、その半径5kmというのは単なる人間の都合である。別にレンタサイクルで美瑛から札幌まで行ってもよかったのだ。……とは言っても、もちろん行かないけれど、きちんとレンタルの約款に基づいていれば、行くのは自由である。箱入りのお姫様をお城からお忍びで連れ出すかのように、レンタサイクルをその見えない支配から卒業させることは可能である。

いずれ、レンタサイクルで全国行脚の旅に出たい。

■ 電波時計編

我が家には3つの電波時計がある。

IMG_1617

ただ、鉄筋コンクリートのマンションに住んでいるせいか、ほとんど電波を受信することがない。時刻情報の乗った電波を受信し、常に正確な時刻を保てることが特徴の電波時計なのに、肝心の電波を受信できないのは相当なストレスとなるに違いない。

しかしそんな状況でも、我が家の電波時計は毎日決められた時間に電波の受信を始めている。ほとんど受信することはないにも関わらず、けなげに電波を受信し続ける電波時計……泣けてくる話である。

ちなみに、国内には時刻情報を送信する「標準電波送信所」が2箇所ある。福島県の「おおたかどや山標準電波送信所」と、佐賀県と福岡県の県境にある「はがね山標準電波送信所」である。

私は西日本に住んでいるため、うちの電波時計ははがね山から飛んでくる電波を受信しているのだろうと思う。電波に対しては、そんな遠くからはるばるよく来たなあと感心するものの、電波時計にとってみれば、やはり新鮮な(という表現は科学的ではないけれど)電波を思いっきり受信したいだろう。電波時計には、不自由をかけてすまない気持ちになってくる。

これも近いうちに、我が家の電波時計を持ち出して、はがね山の近くで標準電波を受信させてやりたい。それが、電波時計にとっての「支配からの卒業」となるだろう。